Cocoだけの話。

日々思うこと。

2019.6からワラーチで走っています。 読書は、百年文庫読破🎉 次はチャールズ・ディケンズをまとめ読みする予定。

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折り返し地点。

村上春樹の小説に、「人生の折り返しポイント」について書かれたものがある。

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回転木馬のデッド・ヒート」の、「プールサイド」という作品。

 

大学生の時に初めて読んで、自分の「折り返し」の年齢について考えた記憶がある。

 

最近の歳よりは元気だ。

と、言ったところで、人は着実に老い、死んでゆく。

20歳前後の私の目には(あるいは10代の私の目には)、30代ですら立派なおばさんで、60代は確実にお婆さんの域である、と映っていた。

 

いざ自分がその歳になると、不思議と麻痺する傾向があるようだが、客観的なゆるぎない事実として、今でもそれは変わらない、と(私は)思っている。

人が人である限り、それは変わらないのではないか、と思っている。

 

大学生の私は、自分の人生の折り返しポイントについて考えた。

村上春樹の小説では、35歳をターニングポイントとしていた。

70歳。

20前後の私には、なんだか欲張りすぎのように思えた。

 

平均寿命が80だ、といったところで、健康でいられるリミットとイコールではないだろう?

60だな。

赤いちゃんちゃんこの60までは、頑張ろう。

あとはおまけの人生として、のんびりと、いつ死んでもいいや、という気持ちである意味死ぬ覚悟をして、好きに生きていこう。

 

そう思ったことを記憶している。

 

 

 

 

30歳の誕生日の朝。

「これが私の折り返し地点だ」

小さな子供を抱きながら、そう強く思ったことを覚えている。

この子たちを、一人で生きて行けるように育てる。

もう、半分生きたのだ。

あと半分だ、なんとか生き延びて、しっかりと歩んでいこう。

 

 

 

 

村上春樹の「プールサイド」という小説に出会えたことは幸せだったと思う。

自分の人生を俯瞰して考えることができた。

もちろん、思った通りには行かなかったことも、多かった。

それでも、大きな道しるべ、目標のようなものを作ることができたし、それによってゆるぎない心と一種の覚悟のようなものを持つことができたような気がする。

 

 

 

 

生き物は、絶対に死ぬのよ。

だから、恐れる必要はない。

だから、一生懸命楽しめばいい。

生き抜くためには、場合によっては逃げてもいい。

時には、悪者になることだってあるのだろう。仕方ない。

自分本位が必ずしも悪ではない。

だって、私は幸せになるために産まれてきたのだもの。(と、信じたっていいじゃない)

 

「プールサイド」を読んで、自分の人生に限りをつけると、そんな風に思えた。

 

 

 

 

さて、折り返し地点を過ぎて、子どもが大きくなってきた昨今。

親としての責任も、随分軽くなってきた。

どんどん、ふわふわと、ネジが緩んできた自分を感じる。

 

歳をとるということは、決して悪いことではないなあ。

楽しいなあ。

もう10年もしたら、もっと軽く楽しくなっているのだろうかなあ。

 

 

 

もう、後は死ぬだけ。

そう思えるようになった私は、ものすごく元気になりそうで、、、、、

要注意。。。

 

 

 

「世にも危険な医療の世界史」

2019年4月に日本訳が出版された本。

 

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科学は、このような試行錯誤や、間違った知識・盲信・幻想を乗り越えて、徐々に進歩してきたのだな、と思った。
現代人が読むと、実に愚かで非科学的すぎて笑ってしまう。

 

 

それでも、結局「今」の人たちも同じ。
昨今の567騒動・枠珍騒動は、いつかこの本の続編に取り上げられることだろう。
人間は、いつまでたっても愚かで感情的で、近視的で、妄想にとりつかれたら逃れにくい滑稽な生き物なのだろう、と思う。

 

 

痛々しくてぞっとする恐ろしい話もつまっている。
ロボトミーについては、以前も別の本で調べたことがある。
何度読んでも、恐ろしい。
この内容を知っているだけでも、「ノーベル賞」というものを少し冷めた目で見ることができる気がする。
ノーベル賞の言うことは信じる」などと言い、外でもマスクをするという恥ずかしいことは、回避できる。

 

 

ラソン中に水を飲まない「脂抜き走法」というものがあったらしい。
気温30度台で水を飲まずにフルマラソンとは、命知らずだと思う。
1904年オリンピックマラソンは、非常に爆笑物のエピソードが満載なので、またじっくり調べるのも楽しいかもしれないな、と思った。

 

 

よく調べて書かれている本だった。

面白かった。

 

百年文庫、読破。

ポプラ社・百年文庫

それぞれ3人の短編を集めた100冊のアンソロジー

やっと、読破した。

他の本にも寄り道をしたので、全部読むのに3年近くかかってしまった。

 

300人の作家の作品に触れることができた。

自分では絶対に手に取らない人の作品や、知らない人の作品も沢山あった。

 

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この中には、退屈だと感じる作品もあった。

有名だけれど読んでみると大したことがない、と感じた作家もいた。

そして、この人の作品をもっと読んでみたい、と思える作家も見つけた。

 

短編というしばりがあるから、必ずしも作家の代表作ではない。

それでも、300の作品を読めたのは、面白かった。

各作品について、ブクログに率直な感想を綴った。

まとまったことを達成できたような気がして、少し嬉しい。

 

 

 

 

トルーマン・カポーティ

2020年10月から12月にかけて、トルーマン・カポーティの作品を集中して読んだ。

 

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トルーマン・カポーティ ~ ブクログ

 

彼の作品は、大きく分けて2種類のテイストがある、と私は感じた。

人の心に潜む不安や恐怖、理不尽さを描いたものと、

純粋で温かくやわらかく、信頼と愛情とを描いたものと。

 

カポーティの作品は繊細であるということは、翻訳であっても伝わってきた。

晩年の彼の荒廃は、その過敏すぎるが故の苦悩だったのかもしれない、と想像する。

汚いモノも、美しいモノも、深く感じることができた人だったのだろう。

カポーティは名誉を喜び、自信があった。

成功によって、その自信は過剰になり、負けることを恐れたのかもしれない。

私は、そう感じる。

 

成功によって得た社交の場は、しかし、美しい場所ではなかった。

 

彼の心の苦悩を想像する。

不安や恐怖を描いた彼と、

穏やかで温かい人間を描いた彼と。

 

カポーティが手に入れ属した社会は、彼にとっては「毒」だったのかもしれない。

しかし、とても美味な「毒」だったのだろうと思う。

 

 

 

 

読後、半年たったころ。

私が、少し精神的にまいってしまった時、痛烈にカポーティが心によぎり、存在を感じたような想いがしたことがあった。

彼の両極端な作品群が、時間と共に私の中で醗酵し、融合し、一つの人格となって立ち上がったかのような感覚がした。

 

これは、言葉ではなかなか表現できない。

一人の作家の作品をまとめて読む、ということは、集中して「取り入れる」ことに繋がるのだ、と、肌で感じた。

 

面白い経験だった。

 

 

 

カポーティの作品は、原文で読んでこそその美しさ・巧みさがわかるのだろう、と思う。

そんな気がする。

だから、洋書に挑戦しよう、と思っていたのだが、まるでカポーティが憑依したかのような濃厚なふるえるような感覚を体験したので、躊躇してしまっている。

また、気が向いたら原書にも触れてみたい。

 

 

 

 

 

カポーティ、死ねてよかったね。と、思う。

生きるということは、彼にとって苦しいことだったろう、と想像する。

己の欲と、周囲からの期待と、汚れた世界と。

彼の孤独を思うと、死ねてよかったね、と。

 

永遠の安らぎは、決して敵ではなく、一生懸命にもがいて生きた人間にとっては、救いである、と私は思う。

 

写真で見るカポーティの瞳が純真なように見えるのは、私だけだろうか?

 

特攻隊

もしも、私がハル・ノートを突き付けられていたら。

戦争回避できただろうか。

全く自信がない。

 

戦争をしないという公約で大統領になったルーズベルト

戦後の権益獲得のため、ヨーロッパ戦線に参加したくても、できない。

日本に攻撃をさせるように仕向けて、戦争を開始できれば、日本の同盟国であるドイツを叩きに行くことができる。

 

だから、絶対にのめない条件「ハル・ノート」を日本に突き付けてきた。

もし、日本がハル・ノートを承認していたら、植民地となっていただろう、と言われている。

 

もし、私だったら、どうしただろう。

何ができただろう。

 

 

 

そんなことを思いながら、読んだ本。

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特攻隊なんて、悲惨で、狂っている。

歴史が苦手で戦争を知らない私は、漠然とそう思っていた。

 

この本を読んで、印象が変わった。

どれほど真剣に日本を守ろうと決意してくれていたか。それを感じた。

当時の「学生さん」は、今よりも貴重な存在で、彼らには自尊心と共に強い責任感があった。

自分が死ぬことによって、何千、何万の日本人の命を救いたい。

日本文化を守り、日本人が虐げられ亡ぼされることを防ぎたい。

 

この強い感情は、「右翼思想」なのかもしれない。

視野も狭いのかもしれない。

それでも、私は彼らの想いを否定しきれない。

 

そして、特攻隊に対する悲劇的な印象は、戦後の教育において切り取られ強調されたものである、ということに気づいた。

私たちに植え付けられた印象は、特攻隊の一面であり、全てではない。

 

それは、逆に、この本についてもいえることだが。

この本すら、当時の戦争の「一面」でしかない。

それでも、一考の価値ある一面である、と思う。

 

 

当時、どのようにしたら、戦争が回避できたのだろう。

攻め込まれずに、戦わずに、日本を守れる方法はあったのだろうか。

歴史に疎い私には、全く分からない。

 

戦争はダメだ。

悲劇しか生まない。

そう心から思う反面、世界の大きな「欲」に巻き込まれて呑まれていった人たちを悪く思うこともできない。

 

沖縄の集団自決も、軍が指導したわけではなかった可能性もある。

この本のP185 「補償問題から生まれた集団自決神話」という項がある。
昨今の群衆ヒステリーを見ると、そうかもしれない、とうなずける。
伝聞が繰り返される歴史において、真実はどんどん埋もれていってしまい、イメージだけが強調されてしまうことも多いだろう。
何事も、一面ばかりを鵜呑みにはできない。

 

そんな気持ちになった1冊。

 

 

 

 

戦争は悲惨だ。そう思う。

しかし、

もし、その時代、その時、私だったら何ができただろう。

そう考えると、否定も肯定もしきれない、複雑な想いになる。

私は、歴史や政治が苦手だから、得意な人なら、答えが出せるのかもしれないけれど。