トルーマン・カポーティ
2020年10月から12月にかけて、トルーマン・カポーティの作品を集中して読んだ。
彼の作品は、大きく分けて2種類のテイストがある、と私は感じた。
人の心に潜む不安や恐怖、理不尽さを描いたものと、
純粋で温かくやわらかく、信頼と愛情とを描いたものと。
カポーティの作品は繊細であるということは、翻訳であっても伝わってきた。
晩年の彼の荒廃は、その過敏すぎるが故の苦悩だったのかもしれない、と想像する。
汚いモノも、美しいモノも、深く感じることができた人だったのだろう。
カポーティは名誉を喜び、自信があった。
成功によって、その自信は過剰になり、負けることを恐れたのかもしれない。
私は、そう感じる。
成功によって得た社交の場は、しかし、美しい場所ではなかった。
彼の心の苦悩を想像する。
不安や恐怖を描いた彼と、
穏やかで温かい人間を描いた彼と。
カポーティが手に入れ属した社会は、彼にとっては「毒」だったのかもしれない。
しかし、とても美味な「毒」だったのだろうと思う。
読後、半年たったころ。
私が、少し精神的にまいってしまった時、痛烈にカポーティが心によぎり、存在を感じたような想いがしたことがあった。
彼の両極端な作品群が、時間と共に私の中で醗酵し、融合し、一つの人格となって立ち上がったかのような感覚がした。
これは、言葉ではなかなか表現できない。
一人の作家の作品をまとめて読む、ということは、集中して「取り入れる」ことに繋がるのだ、と、肌で感じた。
面白い経験だった。
カポーティの作品は、原文で読んでこそその美しさ・巧みさがわかるのだろう、と思う。
そんな気がする。
だから、洋書に挑戦しよう、と思っていたのだが、まるでカポーティが憑依したかのような濃厚なふるえるような感覚を体験したので、躊躇してしまっている。
また、気が向いたら原書にも触れてみたい。
カポーティ、死ねてよかったね。と、思う。
生きるということは、彼にとって苦しいことだったろう、と想像する。
己の欲と、周囲からの期待と、汚れた世界と。
彼の孤独を思うと、死ねてよかったね、と。
永遠の安らぎは、決して敵ではなく、一生懸命にもがいて生きた人間にとっては、救いである、と私は思う。
写真で見るカポーティの瞳が純真なように見えるのは、私だけだろうか?